My Horizon

絵を描く日々や私の日常をつれづれなるままに、言葉と写真で紡ぎます。

大地の記憶と彫刻

地形をなぞるように海岸線を走る電車。

車窓から見えるのは、時折、雨粒が窓ガラスを叩きつける、ちょっとうら寂しい潮風の吹く北海道の海。
なだらかな田園を抜け、いくつかの牧場を通り、次第に線路は、登り坂となり、電車の車体がずっしりとした重低音を響かせながら、馬力を上げ、山道を登ってゆく。



北海道は小さい頃から縁がある土地。

親戚がいたり、姉妹校があって交流するため修学旅行でも訪れた地でもある。

小学生の頃、親戚の家に行った時、阿寒湖でアイヌの人が経営しているお土産屋さんに入り、アイヌの民族衣装を着て母親と写真を撮ったことがあった。

気がつけば、家の至る所にアイヌの木彫りのレリーフや木彫、そして定番の熊の置物がいくつもあり、今も家のあちらこちらに飾ってある。さりげなくアイヌの文化が家の中、定着していた。


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北海道白老郡白老町にある”民族共生象徴空間・ウポポイ”。

ウポポイとは、"おおぜいでうたう"という意味でもある今年7月にオープンした国営の施設の名称。

海外からのアイヌ文化への関心が高まり、その影響もあり、その保護と継承を行うための施設でもある。


ポルト湖を囲む広い敷地内に飲食店が何軒かあり、博物館や公園、工房、伝統的コタン(チセという家屋)、交流館など様々な施設が点在している。




予約していた博物館へ。

アイヌの人々の手工芸やその暮らし振りを振り返る数々の品々は、展示空間もゆったりと取られ、多面的な切り口で貴重な展示物をじっくり鑑賞することができる。

縄文から続くような人々の生活の営みについても想いを馳せた。

鍬を持ち耕す、糸を紡ぎ、縫う編む、狩りや稲作をして加工する、家を建てる。そのどれもが人の根本的な在り方の基本のように思え、また、こういう時代に人は立ち返っていくのではないだろうかという予感を展示を見ながら感じた。



その展示の中で、人の動きが留まり、ちょっと密になりつつも狭いスペースに人々が時間をかけ、熱心に観ているブースがあった。

そこは、博物館の中の展示においても先住民族として暮らしてきたアイヌ民族の歴史を辿る場所だった。

内地から和人が北の地に渡ってきたことで様々な軋轢の変遷を辿ったアイヌの人々。

侵略と戦いと迫害と葛藤…。

虐げられた歴史を解説している場でもあった。

あくまで私の印象でしかないが、アイヌ民族が辿ってきた歴史を伝える重要なブースであるにも関わらず、あまりにもスペースが少なく、資料も最小限に押さえ込まれている印象が残った。

彼らが生きた歴史を紐解く重要なブースを参考文献などと共にもっと拡張して展示して欲しいと深く願わずにはいられないほど強い思いが込み上げてきた。


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ポルト湖の波ひとつない水面の静けさと真新しい施設のまだ馴染んでいない雰囲気がどうも落ち着かなくて、博物館を出てからずっと湖畔に座っていた。

湖畔に座っていた方が、古来からのアイヌの人々が神聖な土地として生活の場を構えていた雰囲気を味わえる気がした。

水面は何も語らないけれど、その静けさの奥に自然への畏敬の念と、その湖面の懐に抱かれ、慎ましい暮らしを営んでいたアイヌの人々の沈黙の気配というものが感じられるようだった。

”民族共生象徴空間”と称されることへの違和感。
どこか国(和人)の形式的な”象徴”のイメージを見る側にも押し付けられているような気もした。

新しい施設が建って、人の往来も多くなって、ある意味、活性化しているかのように見える場所なのに、なぜか聖域を侵しているという印象が拭い去れなかったのは何故なのだろうか。








北海道には街の中にも自然の中にも彫刻をよく見かける。


広大な土地に映える造形物。
そんな印象を持つ。


そこにある彫刻は、厳しい自然環境の中、土地を開墾し、そこに自らの暮らしを築き上げてきた人々の強い意志とその意志を引き継ぐ末裔の人々の生きる姿勢のようなものとも深く関与しているのではないだろうか。
風土性と表現の密接な繋がりの中で、意識化され、物質化された精神の表れのようなものでもあると感慨深く想いを巡らせていた。



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彫刻家・藤沢レオさんの個展会場でもある洞爺芸術館へ向かった。


SNSで彼が撮った作品と窓ガラス越しに浮かび上がる洞爺湖の中心にある中島の姿がとても印象に残った。

観てみたいと思った。


実際にその場を訪れてみると長細いピンク色のキャンバスに紫色のハッチングの線により輪郭づけられた中島が描かれていた。

さらに天井から規則的に長く垂れ下がるようなピンク色の糸が、普段は意識されることのない重力を想起させるようなインスタレーションとして、そこにあった。

艶々の床がまるで湖面のように光がたゆたい、窓の外の風景とそこにある作品との関係性が一つの景色のようにすっぽりとその空間を彩り、形作られていた。

不思議な空気感が漂っていた。

その日は、厚い雲で覆われたあいにくの雨模様だったが、窓越しに浮かんでは消え、消えては浮かび上がる中島に目を凝らし見つめながら、静かな時間を過ごすした。


同じ美術館の常設展で彫刻家・砂澤ビッキさんの展示が行われていた。彼のアトリエも再現されていて、ノコギリやのみなど彫刻する道具の数々が並べられ、在りし日の彫刻家の気配を感じさせる。

木にこだわり、その大木を使った壮大なスケール感の彫刻群に囲まれ、木の持つ優美さと無垢な感性にしばしの間、浸水するように浸った。



美術館の敷地内に雨の中、ゴロッと転がっているミズナラの原木があった。

砂澤ビッキさんの所有していた原木だ。

湿度を含みながら、その切り株の平坦な断面は、緑色に色を変え、ギザギザした内部は朽ちるように赤く赤く内部が染まっていた。それは剥き出しの野生のように見え、官能的な色彩に湖畔に吹く雨風も忘れて、まじまじと眺め愛でてしまった。

 



洞爺湖の湖畔にはいくつもの彫刻が設置されていて、そこを巡る楽しみもある。

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そこで出会ったのが彫刻家・安田 侃の作品『意 心 帰』という作品だった。


素材は大理石を使用しているのに、まるで白い雪の塊が溶け、ある瞬間からそのままの姿を留めたようなその有機的な佇まいは、包み込むような柔和な造形美というものを観る側に印象として与えるかのようだった。しかしながらも、しっかりと大地に根を張ったような毅然とした意志というものを内包していた。

安田さんは、ヨーロッパなどでも精力的に展示をしており、イタリア・フィレンツェルネッサンスの美の殿堂の近くにあるシニョーリア広場にもこの彫刻を展示している。その写真では、ダビデ像の傍にその彫刻は置かれ、さりげなくそこにあり、ローマ時代から続く石畳の上でも怯むことなくそこに鎮座していた。
不思議と街と溶け合い、地元の子供たちもそこによじ登り遊ぶ風景も和やかなものとして自然と馴染んでいるようだった。



北海道の雄大さは、そこに住む人の精神性にも自ずと響き続けているのだろう。

湖面を渡る風の中、語りかけるように今もこだましている。


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《美術手帳、掲載のウポポイについて》
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/22558