2月の初め、田んぼを歩いていた。
雪が少し残った場所は、湿気を帯びたせいか、土が真っ黒なことに気が付く。
手で触れてみると、柔らかく、粘土をいじっている時の感触に近い。
この土の中には、たくさん微細なものが集まっていて、ミクロコスモスの縮図のようなものを手のひらにのせているみたいな気がして、顕微鏡でながめてみたいとすら思ってしまう。
土というものが、たまらなく愛おしい…。
重機が入り、ゴゴゴゴ~っと力強い音を立てながら、後ろへ行ったり前進してみたりと繰り返しながら、田んぼを整えていた。キャタピラーが、土をふみしめるたび、そこから漂ってくる大地から匂い立つ土の息吹が春の気配を感じさせる。
そして、もう3月の中旬…、
気候は、ますます春めくばかり。
昔から、植物の動きを見ていることが好きだった。
色鮮やかに咲き誇っている花は、見ているだけで完璧で、満足してしまう。しかし、それらの木や花が、少し色を落とし始め、頭をもたげ、ねじれながら下降してゆくのを眺めているのもまた、味わい深く、その表情を見ていることもたまらない時がある。
植物といえば、以前にも定点観測していた防風林があった。
けれど、今はもうそこへ行けなくなった。
多分、その木はもう無くなってしまったと思う。
その木は、松林の中で、頭一つ出たちょっと不恰好な木だったけれど、なぜか私の目を引いた。
それ以来、何度も通い、描いた。
スケッチを繰り返し、身体の中にも記憶として刻み込んでいった。
なんとなく自分の存在と結びつけてその木を見ていた。
5月に展示を控えている。
5月、それは、新緑の季節。
この展示が決まってから、樹木を描きたいと漠然と思っていた。
描くのなら、なにか自分にとって特別な木を描けたらいいなぁ…と想いを巡らせていた。
そんな木を選んで、描きたいと。
いろいろと思案して、散歩している木を眺めたりもしていたが、なかなか決まらなかった。
しかし、ある日、頭の中、おぼろげに浮かんできたか、夢で見たのかもしれない…。
よく覚えていないが、その木のイメージが浮き上がってきたのは確かだった。
数日後、浮かんできた木のある場所まで向かってみた。
そして、その木を見つけた。
海の近くに、1本だけ、スッくと立っていた。
その木は、波打ち際から数十メートル先にあってもしっかりと両手を広げるような枝を天に伸ばして、そこに立っていた。
震災から2週間後に入った浜辺。
さまざまなものが変わり果てていた中でもその木を見かけていた記憶がある。
あっ、この木は、無事だったんだ…と。
改めて、生きていたその木を見つけ、私は嬉しくなった。おぼろげに記憶していた木が、そのままの姿でそこにあったからだ。
ちょっと傾き、樹皮には大きなキズが残っているけれど、元気そう。
その木の中で、鳥たちの声が賑やかに聞こえる。ちょうどいい止まり木になっているようだ。
ほとんどの木が消え去った中で、その木は背が低かったせいもあってか、難をのがれていたのかもしれない。
その日から、この木だ!と思い描きはじめた。
あの日から8年経過したけれど、私がその木に抱くイメージは、もう悲しみではない。
起こることをありのままに受け止めながらも、それでもなお今という風の中、しっかりとたくましく生きていることを象徴する木だ。
あらゆることを乗り越えたものとして…。
うねるように上へ上と上昇して行く力と同時に目には見えないけれど地底の下へと向かう力が繊細な線毛が土の栄養を吸い込みながら、幹や枝以上にきめ細やかに広がってしっかりと大地に根ざしてゆくのを足の下で感じながら、想像しながら樹木を見つめる。
木は、人間の時間軸を悠々と飛び越えた時空間の中で生きている。
樹木の中には、何百年と生きるものさえいる。自分が生まれてきた場所で。
さまざまな時代、出来事を見つめながら、自らの内に刻み込みながら、静かにそこに佇んでいる、そんな存在なのだと思う。
その一つの風景を描き記したいと想い、多少のデフォルメをしながら、自分の感じたものがカタチになるよう手を動かしながら紙の上で考える。
伸び伸びとスクスクと自分も大地に根を張るように生きて行けたらなぁ…と思いながら…。
紙の中でどんな木になるのだろう…。
紙の中でもすくすく育って欲しいと切に願う。
私なりに生きている風景をリアルタイムの風景を描きたい。
東北の風をうけながら、今もそよぎ、そこにしっかりと生きる木を。
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【NORI COLUMN Vol.14】
〜願いよ、天まで届け!〜