My Horizon

絵を描く日々や私の日常をつれづれなるままに、言葉と写真で紡ぎます。

面影について

その表情を観た時、釘づけになった。
どこから観ても静かで端正な顔立ち。
そして、憂いも含む美しさがあった。

伝孫次郎作 孫次郎おもかげという能面。


それは、能面のモナリザのようだった。


作者の伝孫次郎の亡くなった妻がモデルと言われている。

亡くなった妻の顔が面となり、能舞台でまた、生き返るのだろう。



面影というともう一つ、自分の中で読み返すものがある。



「おもかげ」

仕事がら、顔のきれいな人はにたくさん会う。

でも、その人の笑顔から何か本当に美しいもの、温かいものが発散されているような人にはならない。
人のことを考え、人によかれと思って行動していないと、なりえない。
その面影はすみれの花みたいに、私の心に残っている。

生きてゆくことは、少しづつ汚れをためていくことなのかもしれない。
少しづつずるさをためて、だんだんくすんでいくことなのかもしれない。

それでも、中年すぎると経験をくぐり抜けて強く、優しくなり、だんだんきれいになっていくものもある。

いろんな人たちの若い時期の写真を見ると、だいたい20~30代に暗く重いよけいなものを一杯に抱えている顔をしている。
みけんのあたりに険があり、自分のことばっかり考えている顔だ。

それが30~40代になると、人によってはまだ重い顔をしているのだが、たいていの人はすっと抜けたような顔になる。
ぱっと開けた顔、こだわりのない、何かをぎゅっと握っていない顔だ。
きっとその顔はだんだんにもっと抜けていって、人は天にかえってゆくのだろう。

自分の思い、自分の悲しさ、わかってほしい気持ち、欲しい気持ち、そういうものを自分の中でぐっと解決して、自分だけをいちばんとしていない時間が多ければ多いほど、その上で自分というものによくなじみ、自分のだめなところも受け入れて、それなりに自分をだいじにしている時間を持っているほど、人はいい顔になる気がする。

いつかもちろん私も死ぬだろう。

どれだけの小説を残したかでもなく、どんなに有名になったかでもなく、少しでも抜けた顔で、あの美しい人みたいな目をして、こだわりの分量をなるべくゼロにして去っていきたいと思う。




よしもとばななのエッセイ。


繰り返し読んでいる。

いつもいいなぁ・・・と思いながら。




しかし、実際には、
これがなかなか…、
なかなかで………。


七転び八起きな日々だけど…。

自分は自分しか生きられない。

でも、そんな自分でも結構、楽しいと思えるようになってきたように思う。


そう思えるのも、受け止めてくれる人たちがいてくれるおかげかもしれない。



それでも、一人で乗り越えなくちゃならない時もある。

凹んだ心をぎゅっと抱きしめる…夜のふところで。



そんな自分をみとめることとみつめること。



誰のせいにもしないこと。



にぎっていたものを、手放すといろんなことが見えてくるから、不思議だ。


生きているうちに、どれだけのものを脱ぎ捨てられるのだろう…。


余計なものは、持って行きたくはない。



経験したことしか、あの世へは持って帰れないのなら、たくさん転んだり、泣いたり、笑ったり、感じたり、考えたりしながら、日々を生きて行きたい。

周りにいる人たちとたくさんの思い出を作り、それを持って帰りたいと思う。




面影は、きっと、自分には、わからない…。


自分の目では見ることができないもののように思う。


それは、周りの人たちが、自然と決めてくれるものなのだろう。