My Horizon

絵を描く日々や私の日常をつれづれなるままに、言葉と写真で紡ぎます。

私の名を呼ぶ、その声が…

猫が飼い主を呼ぶように少し甘えた声で、

生前、母は、階段の下から

「のんちゃん、のんちゃん…」

と私の名を呼んだ。

 

2階にある私の部屋には、ある時期から、階段の掃除の時、意外、ほとんど誰も階段を登ってこなくなった。ほとんど部屋には誰も入れなかったし、今も入って欲しくないという空気を発していると思う。

 

 

 

 

のんちゃん

 

 

最近では、もうほとんど呼ばれなくなった呼び名。小学生の頃は、みんなにそう呼ばれていたのになぁ…。今は、それに近い呼び方で、父が"のんこ"と呼ぶくらい。

 

 

社会に出てからは、当たり前だけど"髙橋さん"、一辺倒…。

 

自分の名前もそこら中にある平凡なものでしかなく、正直、あまり好きではなかった。

 

 

 

しかし、画家としての活動をしてゆく中、震災以降、なぜか典子さんと呼ばれることが増えた。最初は慣れなかったけれど。

親しい人は、愛情を込めて、呼び捨てにして呼んでくれる人もいる。

 

 

 

 

自分の名前は、一つだけ。

 

 

ある日、「子」の字の成り立ちについてある記事を目にした。

 

物事の始まりとしての「一」と物事が完結する「了」が組み合わされできた字だと知った時の小さな驚き。そこに潜む意味合いの中に小さな宇宙を感じた。

子の字は、なんとなく古めかしく硬い印象があったけれど、目からうろこが落ちるような気持ちになったのを覚えている。

 

 

 

 

 

母の七回忌が終わった。

 

去年するはずだった法要が、さまざまことが重なり、今年になってしまった。

みんなで経典を読みながら小一時間の法要が無事に終わった。

 

なんだかやけにホッとした。

遅くなってしまったけど、やっとできたなぁっと、肩の荷がおりたような気持ちになった。

 

 

 

 ホッとして、なんとなく思い出した母が呼ぶ私の名前。 

 

階段の下から「のんちゃん、のんちゃん…」

とう声は、もう記憶の中にしかない。

 

 

その声を思い出したら、目頭の水平線が熱く、にじんできた。

想いは取り留めもなく溢れ出し、得体の知れないさみしさが押し寄せてきて、真夜中の闇の中、うっすらと広がり、湿り気をおびた空気になった。

 

 

 

 

母と私の関係は、けして平坦ではなかった。

さまざまな葛藤がお互いの中、渦巻いていたと思う。

 

普通を望む母と型を嫌う自分。

 

お互い混じりあえないところもあった。

好きで嫌いで、でもやっぱり好きで…。

 

今も複雑な感情が時に呼び覚まされて、幼児のような心がよみがえってしまうこともある。それくらい母親の影響というのは強烈なものだ。

 

 

けれどそこから抜け出して、自分という一人の人間になることが大切だんだと今はそう思う。

 

 

 

 

私は知っている。

 

今、私がしている

絵を描くことも、

文章を書くことも、

旅をすることも、

 

全部、母もやりたかったことなんだと。

 

そのことを続けることによって、なんらかの供養になればと……、

 

そんな言い訳を用意する自分に苦笑いしながら…。

 

 

立てる雄牛

白ずくめのシンプルないでたちで、白いドラム缶と共に美術館にパフォーマーとしてやってきた。

 

初めて彼に会った日、

得体の知れない不思議な男、

そんな印象を持った。

 

 

その不思議な印象は、その後も続いた。

 

去年の舞台・歓喜咲楽、

そして、展覧会・歓喜咲楽〜cosmic harmony〜

でさらにご縁は深まっていったが、謎は深まるばかりだった。

 

 

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やっていることは極めてシンプル。

 

墨と水と和紙による

抽象的な痕跡が連なる作品群。

 

 

 

芸大の油画科に属しながら、

空手に明け暮れ、

世界を放浪して、

インドでの太鼓修行、

そして、パリで空手教師に…。

 

やがて、フランスのラスコー洞窟の壁画の研究に明け暮れ、独自の造形思考に辿り着いた。

 

すべての造形物の中には、牛の像があり、それは万物の成り立ちに深く影響していると。

 

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そんな彼が行き着いた先が、空間芸術だった。

 

パフォーマーとして、その空間を最大限に使いきること。パフォーマンスするその一瞬に噴火するように炸裂すること。

 

 

あくまでシンプル、

シンプルに、

シンプルに…

 

そんな言葉が私の脳裏に焼き付いた。

 

 

 

 

でも、まだ、わからない…

ジェントルマンでありながら、その内に狂気を孕んでいる。今もなお…

 

 

一体、お前は何者なんだ、

 

大串 孝二…

 

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奄美大島・後編〜島 縁と情け〜

翌朝、南国の光が降りそそぐ中、奄美の黒うさぎツアーをした道を再度、バスに揺られる。

 

トンネルを何本も通り抜ける。

トンネルをくぐり抜けるたびに雰囲気の違うエリアがふっと現れる。

 南に向かうほどにオレンジがかったフィルター越しに風景を眺めている、そんな気がした。

 

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古二屋という街の港に辿り着いた。

奄美大島の最南端。

 

次に泊まる宿の女将さんに"今から船に乗ります"と伝えるとフェリーではなく、海上タクシーでおいでと言われる。

フェリー乗り場の海の駅からちょっと行った所に、オレンジ色のテントに大きく白い文字で海上タクシーの文字。

地元の2人のおじさんと話しながら、タクシーを待つ。島にはあまり店が無いので、皆、両手にいっぱいの買い物や荷物を持っての乗船。

 

十数人乗れば一杯になるような小さな海上タクシーに乗り込み、次の島へ渡る。

乗客は皆、下を向き、押し黙って、20分ほどの乗船。

 

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 辿り着いたここは、加計呂麻島

 

山田 洋次 監督の映画『男はつらいよ』の最終作となった『寅次郎 紅の花』という作品の撮影地ともなった場所も数カ所ある。

 寅さん、終焉の地。

 

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この島に興味を持ってから、この土地を知りたくて、この映画を2度ほど観ていた。

 

いくつかの集落が点在する細長い小さな島だ。

 

 

 

その日の宿は、女性たちが多い日で、わいわい盛り上がった。宿の常連さんと女将さんとのやりとりがなんとも実家に遊びに来ましたといった感じで面白かった。

 

自由に国内外を飛び回る話が続き、みんな旅好きな独身女子たち…。

 

 

意気投合した4人で、30分ほど歩いた先の神社まで行くことに。夕飯を美味しく食べるための腹減らしも兼ねたウォーキング。

雑談しながら、曲がりくねった道を歩く。

 

 

弁財天の紅白ののぼりがはためいていた厳島神社へ。

 

しかし、夕方ということもあり、

"墓参りと神社参りは、午前中!"という昔からあるおばあちゃんの忠告のような言葉を思い出し、鳥居の前で、挨拶をするに留まる。

 

この島は、昔、平家の落人が流れ着いた伝説があり、平家の関係者を祀る神社が多い。

 

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その近くに映画・寅さんの撮影に使われたガジュマルの木があった。その木にぶら下がっている縄にプラスティックの黒いウキが付いた遊具がありるのを発見。4人で子供のように遊んだ。…みんな、お転婆!

 

 

戻ってみると庭のデッキではもうビール片手に笑い声…、小さな宴が始まっていた。

 

女子会プラス宿の旦那さんや近くのダイビング講師のご夫婦も交えて、限定のいも焼酎中心の飲み会となり、女将の手料理を満喫。

どこまでも和やかな時間が続いた…。

 

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 朝早く起きて、スケッチへ。

小さな貝がひしめき合うようにコンクリートの壁にへばり付き、蟹が傍にいたそばでドローイング。

 

台風が近づいているせいか小さな白波が立ち、淡いブルーの海も少し濁っているのがわかる。少し靄がかかった遠くの島を眺めた。

 

 

ここでの滞在は、一泊のみ。

 

でも、この島に来られるだけだでよかった。

ただ、ここに来たかった…。

 

 

何にも犯されていない空気。

自然の有り難みに感謝しながら、その懐で生活を営んでいる人々の素朴な暮らしがこの島には今も残っている。 そして、自然の神がしっかりとこの島を護っているのだと…。

 

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この旅は、行ったら分かる

と思っていた。

 

いつも旅は、そうだが…

 

やはりそう、行けばわかる。

 

しっかりと旅の日々が、記憶に肌に染み込んだ。

 

 

 

5年ぶりの一人旅。

なぜか島ばかり行ってしまう…。

 

一人旅は、自分の中、浸水することができる。  

それは、内観に近い行為。

旅は、絵の原動力でもある。

内面の活性化にも通じる。

 

  

そして、人との出会いの中、相互作用によって育まれる自分というものが、確実にあると教えてもらった。

 

 

 寅さんも言ってたかも…

"袖振り合うのも多少の縁、

旅は道連れ、世は情けってことよ"

 

 

 

 

 #奄美大島

#旅

#一人旅

加計呂麻島

 

 

連 絡

いろんな場所から電話が来る、
メールが来る。

大丈夫だった?被害はなかった?

何年ぶりに声を聞く人、遠くは九州の離島からも電話があった。

想いが気遣いの言葉となって、私に届いた。

人の想いの有り難さよ…。


ー一大丈夫、無事です。






朝から晩まで、自衛隊のヘリコプターの音が聞こえる。

買い物に行けば、パン売り場の棚がガランと空っぽだったり、水はお一人様6本までという張り紙がしてあったり。

JR東北本線が不通になっているためか、いつもより道路も渋滞が多い。




ー一あの日を思い出す。



こんなに自然災害が頻繁に起こるなんて…。

でも、そういう時代を生きているんだという現実をいやというほど思い知らされる。




5日間、家を留守にしてやっと帰宅しホッとしたのもつかの間、12日の夜の雨風の半端なさといったら…。
今まで聞いたことのない音がして、家が時折、きしんだ。
お風呂に入っていて、この家はもつだろうかとその荒れ狂った雨風の音を聞いていた。吹き込んできた雨が床を濡らした…。短い間の雨漏りにバケツをあてがう。




避難勧告も出されたが、家のどこかが吹き飛ぶようなことがあったらと思い、ネットで避難場所もチェックしていた。


そして、小さな地震もあったりで…。


どこでなにが起きてもおかしくはないんだって…。



2日後、川幅が広くなった阿武隈川下流を橋の上から川を眺めながら、上流の丸森地区のことを思った…。



人と人との連携ということをまた改めて考えてしまう。
そして、自然とのかかわり合いということも…。



わかちあい
助け合い
譲り合い
補い合い
支え合い


日本には、たくさんいい言葉がある。
この日本の風土の中、生まれてきた言葉。
そして、大事にしてきた言葉。

私たちの心の中に、今も生きている。

奄美大島・前編〜南方より、波打つ〜

4年ぐらい前に読んだ本がきかっけに念願の場所への出発にお許しが出て、旅に出た。

 

目指す場所は、遠く、テレビの天気予報の衛星写真を見るたびに、その距離の遠さを確認していた。

 

テレビでは、大型台風上陸と警戒を呼びかけていたが、ギリギリなんとか帰ってこられると予測して、家を出た。

 

 

 

 

 

 久しぶりの九州。

 

何故に九州なのかよくわからないけど、なんだか惹かれる所が多い。

 

特に自然の豊かさ、南国特有の日差しの色、ゆったりとした空気が流れている。気候的には、東北とは対極なもの。

 

その中に求める何かがあるのだろうか?

 

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 辿り着いたのは、南国・奄美大島

 

ゆる〜い空気が、なんとも穏やかで、そのまま宿に向かう夕暮れの海岸線を走るバスにしばし揺られる。

 

泊まる宿は、バス停から、700mとは聞いていたけれど、遠い…。行けども行けども緑豊かな林は、亜熱帯。グーグルも使ってはいるけど、大丈夫かしら?と思いながらひたすら歩く。

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 やっと小さな看板を見つけ宿に着く。

都会から移住してきたご夫妻がしているゲストハウス。

 

6時もすぎて、あまり食事をしていないことに気がつく。

周辺には、飲食店が2件しかなく、近くの場所は、サーファーの若者たちで賑わっていたので、少し歩いた所にある白いレストランへ向かう。

 

懐中電灯を持って行きなさいと渡された。

そこのエリアには、ほとんど街灯がない。

 

夕暮れの浜で、しばし時間を過ごし、潮風に浸る。

白い浜辺、透明度の高い海が広がり、月がぽっかり浮かんでいる。

 

一人食事をすませ、懐中電灯をつけて歩く。

夜行性のハブが出てくる可能性があるで、道の真ん中を歩いた。

 

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早朝、早く目覚め、浜へスケッチ。

アダンという植物の実がなっているのを発見。

 

奄美大島は、栃木県出身の日本画家・田中一村が50代に移住した土地。アダンの木は、一村が好んで描いたモチーフの一つだ。

 

たわわに実るアダンの他にもバナナの木やグァバの木、蘇鉄、クワズイモ、パパイヤの木など、南国特有のフルーツが自成している。見慣れない植物たちに何度も足を止めた。

 

朝日に照らされたアダンの葉は、黄金色に輝き、その陰影が織りなすコントラストには神々しい造形美を感じた。

 

 

 

 

次の日、大島紬の発祥の地という場所を訪ねる。

 

絹糸を80回ほど染め、そこから、細かい縦糸の点と横糸の点を十字に合わせデザインされた幾何学模様を精密に織り上げて行く工程は、気が遠くなる。

更に絹糸は、湿度に敏感で、その日その日で状態も変わってくるというから、熟練の技が求められるまさに職人技。

 

 そこで30年間、泥染めの職人さんのおじさんとしばし話した。縄文の特有の濃い顔立ちにアイヌの人の顔を思い出した。

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そして、奄美博物館へ。

独自の信仰と文化を持っていた平和で穏やか暮らしをしていた奄美大島

しかし、琉球王国や島津家の支配下になり、更に戦後、アメリカの領土に…。

その後、住民自らが署名運動や座り込み、断食などの非暴力による運動を起こし、日本国を動かし、悲願の日本への返還を自らの手に収めたという歴史を持つ。

 

以前から、興味があった琉球王国の祭祀を司ったノロと民間の中から神様に選ばれ巫女のユタの歴史にも少し触れた。

 

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そして、田中一村美術館へ。 

 

縄文時代の高床式住をモチーフにしたような建物は、大変モダンでいながらも奄美特有の風土感も取り入れた見事な施設だった。

 

幼少期から晩年に至るまでの作品を時間をかけて眺めた。その素晴らしさは、言葉にすることができない……。

 

 

 

その晩は、泊まり客は、私ともう一人の女性だけだったので、オーナー夫妻と一緒に夕飯を食す。

 

もう一人の女性の泊まり客が、今から奄美の黒うさぎを一人で探しに行くということで、同行することに。

 

 

とっぷりと夜もふけた暗い道を車でひた走る。

 

トンネルを何個も通り抜け、マングローブの森を横目に標高の高い方へ車を走らせる。

 

黒うさぎに注意の看板が出てきた。

 

道をゆっくりゆっくり走っては、懐中電灯で照らしながら様子を伺う。山の守り神でもあるハブがたくさんいるので、車の外へは絶対に出ては駄目!と念を押され、窓を開けるだけにとどめる。

木の上からハブが飛び降りてきたら!と妄想しつつ、まるで水曜スペシャルの〇〇探検隊気分だねと笑いながも道を進む。

 

しかし、粘っても粘ってもなかなか素人では、巣穴も見つからなかった…。

 

すれ違う黒うさぎツアーの車とすれ違いざま声をかけると「いましたよ!」と言われるたびに期待は高まったが、巣穴を知ってるガイドさんのようにはいかなかった。

そのかわり奄美にしかいないカエルとネズミと鳥がひょっこり飛び出してきた。

やはりガイドさんに頼まないと黒うさぎは、なかなかお目にかからないようだ。

 

深いジャングルのような森には、幾千もの命が蠢き、野生動植物の日常が繰り返されいるのだろう。その闇に目を凝らしながら、その見えない世界に想いを馳せていた。

 

 

 

 #奄美大島

 

一九四六

買い物で立ち寄ったいつものスーパーの入口に貼ってあったポスターの中に、"墨と油絵で描く"という文字を見つけた。

 

「墨と油絵って、どんな展示だろう…?」

 墨も油絵も使う自分にとって、自然に興味を持った。

 

 

 展覧会、最終日の会場へ急ぐ。

 

ちょうど一年前の今日もここに来ていた。

 

グループ展「歓喜咲楽〜cosmic harmony〜」の会場で展示や受付をしていた宮城県美術館市民ギャラリーで、この展覧会も行われていた。

 

一年ぶりに赴く。

 想い出がいっぱいの場所だ。

 

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『日本満州引揚者を描く   王希奇 展ー一九四六ー』

中国人の画家 王 希奇さんの展覧会。

 

 

荒涼とした海が音をたてながら、うごめく。

人々の想いが波間に浮かぶように重く鈍く輝いている。

 

絵から遠く距離を置いて眺めてみると、その大海が広く大きく波打っているのが体感できた。

 

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 海のエリアを抜けると、その奥に薄暗いスポットの中、墨と油絵具の作品が、待ち構えていた。

 

 『一九四六』

 

大きな船を背景に潮風と土埃が吹き荒む港に辿り着いた人の群れ。

 

 それは、引揚者の群像。

 

この絵の構想のきっかけは、一枚の写真だった。日本の敗戦直後の1946年7月に葫蘆島に渡った飯山 達雄さんが撮影した母の遺骨を手にした男装の少女の写真に画家の王 希奇さんが惹かれたのが始まりだったという。

 

 

墨と油絵具で描かれた縦30m×横20mの大きさの画布に満州国から引き揚げてくる日本人たちとその情景が描かれていた。

 

戦は、日常の色彩をすべてを奪い取り、

色の無い世界を作り出す。

 

  

大きなリュックを背負い戦いを終えた軍人の男性。

風呂敷包み一つと子供の手を引く親子。

年老いたものを背負う人。

 

戦火を生き延び、それでもなお生きようとする人々のたくましさが陰影の中、浮かび上がってくる。墨で細かく描写された人物像には、まったく迷いがない。

 

吹き荒む風のありようを伝える筆の動きは、荒れ狂う時代の終焉の空気を封じ込めていた。

そして、夢にまで見た祖国への帰還と新たな出発に、この地を踏む人々の安堵や戸惑い、不安に至るまでの心理描写を克明に記録し描き尽くそうと果敢に画面に向き合い、絵筆を走らせているその躍動感が胸に迫ってくる。

 

 

 私の身内に引揚者がいたからだろうか…。

余計にその事と重ねてこの絵を長いこと、眺めてしまった。

 

その人が引き揚げてこなかったら、今、この絵に向かい合っている自分の存在すらなかったのかもしれないのだから…。

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この展覧会は、2017年に東京で開催され、2018年、引揚者が多く辿り着いた港もある京都府舞鶴市でも行われた。そして今年、12、419人という多くの宮城県人が開拓民として満州へ渡った宮城県という地でこの展覧会が行われたという。

 

「日本中国友好協会は、侵略戦争の歴史を教訓とし、「二度と再び中国とは戦わない」との不再戦平和の思いを大切にしながら、文化活動、友好交流活動をとおして、中国に対する理解と友好の心情を育み、日中両国関係の改善と東アジアの平和と安定につなげようと全力をあげています。」(日本中国友好協会の井上 久士さん)

 

 

 東アジアの平和が世界にとってどれほど重要なことだろう。

 

しかしながら、悲しいことに現状の国同士の政治的動向は、バラバラに分断を余儀なくされている。

 

 

 

 

政治と文化は、対極にあるのではないかと思う時がある。 

政治ができないことを文化は成しえることができる。

 

平和的に問題提起したり、相互理解の場を生み、共に場を共有し、お互いの違いを受け入れながらも自由に交流をすることができる。

 

作品を通した友好的な人間同士の交流がそこにはあるのだと思う。

 

そして、国境を言語を越えて共につなぐ平和への願いがある。

 

この展覧会に封じ込められた記憶が鮮度を失わず人々の脳裏に残り、生き続けることがとても意味のあることなのだと思う。

 

 

感 触

夜の濃度が濃くなってきている。

月や星々もちょっと前より、キリッとした輪郭で、輝きを増しているかのようだ。

その闇をくぐり抜けて、どこからともなくふんわりと金木犀の香りが届いた。

虫たちのたどたどしかった鳴き声も
ずいぶんと上達したようで、秋の風情にいつのまにか溶け込んでいた。

もうすっかり秋の佇まい…。



4年間、髪を切ってくれていた美容師さんが辞めることになった。

突然の話で、とっても驚いた。

美容師一筋の人だったのに…。

いつも理論的な説明をしてくれた。

丁寧に髪を洗ってもらったり、
髪が伸びてもうまくもまとまるようにしてくれていたのに…。

新たな出発をされるようだ。

なんとも残念…!

今度は、誰に髪を切ってもらえばいいのだろう…?

また、美容室探しになるかもしれない。


なるべくなら一人でやっているような、こじんまりとした所がいいなぁ…。

身内が体調を崩して、病院へ。

行ったり来たりの繰り返しが続いた。

しかし、快方に向かいひとまず安心。

そんな中、夕食に付いてきた飲み物が、なんともビミョウで愉快だった。

それを飲むべき当人が飲みたくないというので、代わりに私が飲んできた。


この音の響きは、もしかしたら、
"勇気凛々"という言葉からきているのだろうか?!

ビミョウな言葉とビミョウなお味にジンジンとネーミングした人の苦労がしのばれる…。





そんなこんなで、いろいろあって、決めていたことをすべて諦めてしまおうかと思っていた。


しばらく保留にして、悩んだ末に、もう天にお任せしようと思った。


そして、ひょんなカタチで、答えが返ってきた。

それは新聞の中の広告を通して、返ってきた。

その返し方が、ユーモラスで朝から一人で爆笑してしまった。

"行くんだ!〇〇〇〇!"

直球のGOサイン。

しかと、メッセージを受け止めた。