My Horizon

絵を描く日々や私の日常をつれづれなるままに、言葉と写真で紡ぎます。

阿吽山水と不忍池

阿吽山水。

 

私の中で、長年、記憶の奥底に定着している言葉だった。

 

その言葉が一つの舞台となって、目の前に現れる日が来るとは…。

 

 f:id:horizon1970:20181119211724j:image

 鯨井 謙太郒さんの舞台は、ここ数年、観続けているが、彼が言葉を発っしない表現をするのを初めて観た。

 

純粋に舞踏をする姿。

 

 

 陰陽の役割を果たす鯨井謙太郒さんと奥山 ばらばさんとの相対する身体表現。のたうつような身体の動きの攻防のような、共鳴のような激しい掛け合い。

音楽を担当した藤田 陽介さんの機械的ノイズは都市を感じさせ、その一方で、手作りのパイプオルガンは、温かく包み込むような素朴な音色として響き、自然界や天界を想起させた。更に、純粋な音そしての声と水の音の響きとその間合いによって、舞踊する二人を導びくように…。

そして、視覚を通して、光と陰の交わりによって刻々と表情を変えながらも呼吸する生命形態として抽出されたもののように存在するTOUJ氏の空間儀。

 

謙太郒さんとばらばさんの身体からほとばしる汗が飛び散り、床を転げ回る二人の身体の動きを残像のように黒く定着させていた。


生命のギリギリの沸点と限界点で発散し続ける身体の熱量の運動としての舞踏に目撃者としての観客も手に汗握りながら…、背中を正したり、身を乗り出してみたり。

こちら側も問われるような実験的なアプローチに共に呼吸し、一瞬、脱力したかと思うと、次の瞬間には息を飲むような感覚と覚醒とが相まって、パフォーマーの動きを見守るように鑑賞し続けていた白熱の舞台!

 

四者によって形作られた支柱が相混じりながらも、一つの方向へと向かうように…。

 

 

透明な水槽の中に吹き出るオゾンのような水の泡の音が、生命の象徴のように鳴り響いていた…。

 

こんなにも実験的なものを生で観られるというのは、とても貴重な体験であったと思う。

 

そして、とても新鮮な体験でもあった。

 

 *・゜゚・*:.。..。.:*・':.。. .。.:*・゜゚・*

 

 弾丸で東京巡りも疲れがあってか、二日目は、六本木界隈を現代アートを数本観て回ろうと計画していたものの、すべて投げ捨て、昨日、行った上野の森へ、再び。

 

東京に来て、自然が恋しくてたまらなくなるっていう…私!

落ち葉が積み重なる土の下に手を入れて、一人、目を閉じてみたり、落ち葉の葉の色も一枚一枚、色彩を眺めたり。

 

前日に、マルセル・ディシャンの展覧会にひどく感動しながら、東京国立博物館の古い作品たちにたくさんの力をもらった。

 

古代の造形物には、個人という意識は感じられない。その分、信仰や捧げものであるため、無私の精神によって作られているように感じて、純粋な精神によって意匠された渦巻きの文様や天然の色彩を観ていることで、古代の感覚と向き合っているような気持に誘われるようだった。

 

f:id:horizon1970:20181119211530j:image

 

上野では、美術館や博物館側しか、歩いていなかったことに気がつき、敷地内を散策。

 

道路を隔てた少し離れた場所に、寺院のようなものが見える。

 

 

あれは何?

 

 

歩道を渡り、たどり着いたのが、芸術の神様である弁財天を祀っている寛永寺だった。

ここは、昔、弁天島中之島)と呼ばれていたという。

 

不忍池には、蓮の葉がさまざまな表情で、迎えてくれる。

その蓮の群生地にしばし見入る。

花が咲く時期もみごとなものだろうが、枯れた植物の見せる姿も一層、愛おしく思ってしまうたちである私は、鳥の群れの中で、気持ちよくその風景に浸った。

 

そして、数十匹の鯉が群れをなし、その横をカモが優雅に横切る、まるで日本画の世界。

 

 f:id:horizon1970:20181121150802j:image

その池の向こうにはビル群がそびえ立つ、この自然と都市のバランス…。

 

 

東京は、不思議な所だなぁ…。

 

 都市は、エネルギッシュで、いろんなイベントも多いけれど、あまりにも過密状態で、忙しなくて、処理しきれない多くのものを抱え込んでいる。

どこかとても疲弊しているように思えてならない…。

 

地下鉄の電車で見た人々の表情のこわばりに、その気配を感じた。

 

地方に住む者として、距離感をもって大都市を眺めることも大切なことのように思える。