8月の空は高い。
そのせいだろうか、地上に降り注ぐ強く鮮やかな光とその光によって生み出される影もクッキリと際立つように見える。
いつもの街並みの色彩の彩度も高く、パキッとしたコントラストを生み出しているように感じる。
これは、8月に入ると毎年、感じていることでもある。
8月だけが持つ、独特の雰囲気というものがあるのではないだろうか…。
日本人にとって、なにかさまざな記憶が8月の中に封印されているからかもしれない。
8月に入るとテレビでは、戦争の特集番組が放送される。
戦後73年のイクサ ノ キオク…。
戦争体験者の高齢化によって、だんだんと記憶が薄らいでゆく危機感が否めない…。
しかし、今年はなんとなくNHKでは、そんな番組が少ないように感じる。
今年見た番組では、被曝三世の人たちが今もアメリカが創設した放射能の検査施設(今は、日本で管理している施設)で、検査を続行しているというドキュメントを見た。たぶん、被曝四世、五世と放射能の影響を検証してゆくのだろう。
念願だった映画「野 火」を観てきた。
今も自主上映という形を守って、上映されているため、観る会場も機会も限られている作品でもある。
久々にムービックスではなく、映画館へ赴く。
久々の仙台フォーラム。
行く前からドキドキしながら…。
去年の秋頃にもブログの中で「野 火」を読んで感じた事を書いていた。
大岡 昇平さんの実体験に基づく小説。
フィリピンのレイテ島での戦争体験から生まれた物語。
肺を患ったことで、所属していた部隊からも見放され、野戦病院にも入ることが出来ず、ひとり、原野を餓えに耐えながら、彷徨う兵士の視点で描かれている。
鬱蒼とした密林の中で、ひかる人の白目が薄暗い緑の中、見えない敵に目を凝らす。
フィリピンの豊かな自然の色彩の中で、人間だけが憐れで、行き場がなく、蠢きながら豊穣な大地を血で汚し続ける。
いつ襲われるかわからない恐怖と強烈な飢えとマラリア。そして、良心や理性は、遥か遠く消え去り、野獣と化してゆく人のような形をした生き物…。
遠くで見える煙が不穏な象徴として描かれている。その煙は、生活の中から出ている焚き火のようにも見え、ゲリラ開始の狼煙のような煙にも見え、日本兵たちの不安を煽り続ける。
ヴェネツィア映画祭などにも出品され、原作のリアリティを描いたことで、残酷過ぎないかという批判もあったようだが、個人的には、やり過ぎという印象はまったく受けなかった。
たぶん、戦争のリアリティとは、これ以上のことかもしれないと…。
映画も小説も疑似体験を味あわせてくてる。
"この映画が心に残る傷になればいい"と塚本 晋也監督は、言っていた。
映画館の外に出て、普通の暮らしが目の前にあること、これが平和な時間なのだと漠然と身体で感じた。
そして、南洋の島々で孤独に亡くなっていった名もなき人たちのおかげで今があることに想いを馳せてしまう…。
ペシミスティックな感情ではなく、頭を下げ合掌したいような気持ちが込み上げてくる。
塚本監督が20年の歳月をかけて、やっとカタチにしたこの作品を通じて、声なき声が今も、見えない世界から、俺たちの死を無駄にしないでくれ!という叫びが、想いが伝わってくるようだった。
日本人の在り方、
そして、その行方に…。
一人一人の考え方がこれから、どれほど大事になってゆくのだろうかと…。