今年はのんびりしながらもほぼ一年を通して断捨離をして過ごしていた。
ネットで、古着を引き取ってくれる所を探してていたら、古着でワクチンというサイトを見つけて、即、試してみた。
3,000円を払い、クラフト紙の袋が届き、そこへ詰めるだけ詰めて送るシステム。
発展途上国の子供達のポリオワクチンなどにその収益金が使われるそうだ。
そして、断捨離屋さんにも来てもらい大物なども少しずつ処分した。
物のない時代を経て、高度経済成長期という山を登り、辿り着いたバブル経済。流行を追い、モノを買い求めることで自分自身を満たしていた時代の名残が部屋のあちらこちらに充満していた。
旅に行けば記念の木彫りの置物、お人形、こけし、皿、記念写真等々、捨てても捨ててもこれでもかというほど出てくる…。
まだまだ断捨離は、終わっていないが、近代の物質文明の嫌というほど感じた一年でもあった。
今年も展覧会の中止、延期が続き、なんとも言えないいきどおりのようなものをたくさん感じた年だった…。
も〜〜、イヤ〜〜〜〜!!!
の一言の中に抑えきれない大絶叫のような気持ちがこみ上げてきて、その勢いに任せバックパック片手に一人で旅に出た時もあった。
相変わらず旅もしていた。
ニライカナイを目指して、タイミングが合い、飛び立った沖縄との出会いは、私にとってこの上ない発見だった。
2度目には、玉城(タマグスク)のある南城市周辺、そして、また、首里城へ。
首里城に一日中いて、スケッチしたりしていた。なぜかとても心安らぐ場所でもある。
しかし、今年後半は、
ゴロゴロ
ゆったり
のんびり
ぼ〜〜として、
すべてを諦めて、
断捨離に次ぐ断捨離に精を出し、
溜まっている本を読んで過ごしていた。
とにかく読んだ
のりこの”の”の字は、のんびりの「の」と言っても言いいぐらい根っこはマイペースののんびり屋の私。
家でまったりしていることが多かった。
まぁ、こういうのが性に合っているという感じでもある。
旅に出るのも好きだけど、家に居るこも結構、好きなのである。
見えないプレッシャーを感じず、
何にも追われない日々は、平和でいい。
何かお声掛けが来るまで自分からは動かないでぬくぬくしていようと決めていた。
そんなゴロゴロ生活の中でも、ひらめきが走る時だけは行きたい所へ行っていた。
偶然、行った先で知り合った沖縄の雲の絵ばかり描いている彫刻家で画家の喜屋武 貞男さんから、自費出版した本が届いたのを機に個展へ出かけてみたこともあった。
小さなギャラリーの壁一面に沖縄の空、空、空、雲、雲、雲。
そして、沖縄にルーツをもつ喜屋武さんのゆんたくが始まり、お手製の横笛と歌声。私は、沖縄の三板、尺八奏者も飛び入りで、ハイサイ、ゆいゆい♪知らない人たちと小さな宴のような雰囲気についつい長居をしてしまった。
そこを起点に10月にある展覧会へのお誘いを受けた。
今年は何もしないでいようと決めていたけれど、2度ほどお誘いを頂き、参加を決めた。
旧作2点を額装し直し、それを運ぶための段ボールを1日がかりでカスタム。
そして、当日、手持ちの搬入、新幹線へ。
新幹線は、早くて楽ちんだなぁと思いつつ、虹を見たり、大宮あたりで、富士山を拝め、有り難い気持ちに。あっという間に東京駅到着。
東京でも開催される場所としては、私にとっては未開の地に等しい所だった。
グーグル片手に歩いていると近くにはマジンガーZのような超合金っぽい都庁がデ〜〜ンと建っていたけれど、興味がないのでスルー。その周辺もハイアットなどの壮々たる超高層の建物がひしめき合っていた。
空を見上げるたびに、いつも地元で見ているどこまでも高く広がる空が、そこではパズルのピースのように水色のかけらみたいに見える。東京の街はどこか記号化され構成され、機能していることを改めて感じたりしていた。
ヒルトン東京の地下にあるヒルトピアアートスクエア。
結局、上には行かず地下を外を行ったり来たりのみ。
格安ゲストハウスとヒルトン東京を行き来しながら、この経済的背景のギャップみたいなものを密かに楽しんでいた。
ホテルに滞在している外人さんがサッとお土産のように作品を買い求めていく姿を見かけたり、ベテランの作家さん達にお会いしたり、また、違う刺激を受けた。
同じ美術という共通項があるからいつも知らない土地の作家さんたちともどことなく自然と繋がりを感じることができる。夜の新宿を歩きながら、ゴチャゴチャした昔ながらの酒場街を歩くのは楽しかった。
様々な地方から集まった49人による展覧会でもあった。