この言葉は、もう時代遅れなのかなぁ…。
この言葉は、たっぷりと昭和の気配を醸し出している。
けれど、私の中では、明確な鮮度をもって心の中、生きている言葉だ。
無頼派…。
戦後の無頼派と呼ばれた人たちは数知れず…。
現代は、どうか?
私は現代文学には明るい方ではないけれど、なんとなくこの人は、現代を生きる無頼派なのではないかと思う人物がいる。
作 家・村山 由佳。
彼女に興味を持ったのは、立ち読みしていた雑誌クロワッサンのインタビュー記事だった。
離婚を経験して、身体に入れ墨を入れたという告白と恋愛遍歴について語られていた。
ハーレーダヴィッドソンに乗り、ビリヤードをこなしている姿がインタビューと共に写真に収められていた。男の道楽といったものを軽々とこなしてしまうような男前の女性でもある。
しかし、ボーイッシュな風貌の隙間から、色濃く女性性が匂い立つのを感じたのも覚えている。
オンナの姿をしている人より、ボーイッシュな女性の方が色気を感じるからだ。
村山さんの小説は、爽やかなで切ない物語の白・村山と生きる欲望と向き合う黒・村山に分かれるらしい。
私は、黒・村山の頃の作品しか読んだことはない。そちらの方になぜか引かれる。
自分の離婚するまでの内容心情を物語にした作品「ダブルファンタジー」
家族を登場人物ごとにページ分け、個々の視点から、描き出していた家族と歴史が描かれていた「星々の舟」
自身の母との関係や呪縛を克明に描いた「放湯記」。
自分自身の暗部をえぐり出して、時には古い大きなかさぶたを少しずつ、剥がしながら書いているのではないかと思わせるような生々しさを感じることもある。
文章の中に自分を投げ出すような自分の過去をベースとしながらも、その経験すら、己れを突き放すように書くという行為は、どれだけのものか…。
それは、とても勇気がいること。
自分の欲望に従うことも…。
言葉にならない心象の真を突くことでもある。
それが読み手側の無意識の深層の壁に跳ね返り、手探りの記憶を呼び起こさせることもある。
同じ体験をしているわけではないけれど、深く共振する部分を十分と言っていいほど持ち合わせている。
つまり読み手側にも伝わるリアリティーがある。
自分自身の内面から突き上げてくる衝動に正直に書きしるしてゆく行為は、作家の皮膚感覚にじかに触れるようなもので、時にはしびれ、自分の底辺にもズドンと響く振動を与える。
あまり小説を読まない私だが、これほどまで身を削って、自分と向き合い、勇気のある行動を起こし、書いている作家を他に知らない。
一人の人間の中に内在する男性性と女性性とが創造の精神の中、結びつき、そこから創造の産物が生まれてくる。時には悪魔のような残酷さすら感じさせる。
そして、創造することの内側を刺激する。
女性の持つ内臓感覚みたいな、
皮膚感覚のような…
直感で、物事を捉える
生理的な感覚に共鳴している自分がいる。
「人間、「自由であること」を突き詰めれば、「孤独であること」にも耐えなくてはならない。
でも、そうして自分だけの足で独り立つことができてこそ、ひとは本当の意味での他の誰かと関わることができるんじゃないだろうか。そうすることができこそ初めて、何ものにも惑わされない自分だけの「幸せ」を見つけだせるんじゃないか。」
(「星々の舟」あとがきより)
渇ききった日常の中、精神の水を求めてさまよう時、時として活字は、聖水となり、視覚から活字をゴクゴクと飲み干してしまうような時がある。
彼女の作品は、そんな水のように精神の地層に染み渡る。
”生きる”ということを感じさせてくれる稀有な作家だと思っている。
#無頼派
#村山由佳