灯された数本の蝋燭。
その炎を絶やさぬように、その蝋燭が少しづつ短くなるにつれて、ゴールの日が近づいていると思っていた。
そのともしびは、私にとって生きていくための小さな光であり、希望だった。
しかし、その炎をゴール寸前で、自ら吹き消さなければならい状態になってしまうとは…..。
5月の展覧会の延期も4月のパフォーマンスの中止も私から申し出、提案し、方々に相談した結果、出たした答えだった。
中本誠司さんの没後20周年を迎える2020年4月。
昨年から、ある話が浮上して、数人で何かをする計画が二転三転し、各パート別に内容を考えるという案に落ち着き、大串孝二さんと2人で何かをするという話になった。
大串孝二さんの相手は、舞踏の方が多い中で、
パフォーマーでない私が何をするのか…。
大串さんの"僕に任せて"という言葉だけを信じて、そのアイデアが来るのを待った。
数回話し合って、パフォーマンスのアイデアはなんとなく想像していたが、やっと今月になって、ラフスケッチが送られてきた。そのアイデアは、私の興味を引くものだった。
これなら出来るかもしれない….。
そして、その内容は、誰も見たことのないものになるような気がしていた。そこへ込めた意味合いも、私が常日頃、絵の制作の中、思っていることに共通しているものだったのでとても楽しみにしていた。
すべてが大丈夫だ、と踏んでいた。
しかし、刻々と変化する世界情勢。
一日、二日で、状況が進み、一週間で世の中が、ガラッと音を立てて変わってゆくさまを液晶の画面越しに見つめていた…。
そして、もう一つの展覧会。
3人展の発案者は、私ではないものの、国内のコーディネートは、美術館側の助けも借りつつ、この展覧会のサブタイトルと同じように"パリと仙台"を結ぶやり取りを一人で担っていた。
作品をお借りする先方に展覧会のきっかけになった経緯を手紙に書き、参加のお願いをしたり、パリへも状況を伝えながら、手探りながも着々と準備は進んだ。
グループ展は、何度か行ったことがあったものの自分が主導ですることは、初めてに近かった。
フライヤー作りも東京に居る方とのやり取りとパリと仙台とを結ぶやり取りで、個々にメールを送る方法しかなかったため、なかなか思うように伝わらなかったり、何かがスコンと抜けていたりして、お互いに気を揉みながらもようやく終わりが見え始めていたところだった。
そして、このフライヤーを4/4の中本誠司没後20周年のイベントに間に合わせることを目標にしていた。
そんな中、パリの空港か封鎖されたとの連絡が入った。封鎖間際に飛び立ったと安心しきっていただけに、一瞬、目の前が真っ白になった。
SNSで情報を集めて、今後予想されそうな出来事を頭の中で出来る限り想像し、いろんなことを想定してみた。
パリから来る作家さんが来日したとしても、パリに帰る際に大変な状況になるのではないか…。パリにそのまま居てもらい作品だけを送ってもらうには…?ギャラリートークも一人でどうこなすことができるだろうか?等々、出来そうなことを書き出して検討してみた。
ピンポンのようにメールの応酬が続き、やっと出た答えが、すべてを見送るということだった。
たまたま重なったことがすべて流れ去った。
まるで大きな引き潮が砂を掬いながら沖へと引いてゆく時、足元が深く沈み込んでゆくようなそんな感触にも似て…。
まさかという言葉が、またか…という言葉にいつの間にか変わっていた。
これでもかといろんなことが起こりますが、
それでも日々は、続いてゆきます。
今は、機が熟すその時を待つことにします。
そして、一番大事にしなければならない人のために自分ができることするだけのような気がしています。
まだまだ描くことも足りないのだと思う。
ただ淡々と粛々と目の前のことを"続けてゆくこと"だけを念頭に置いて、根気強く日々を歩んでゆくしかないのだと…。
2020.3.30 秋田育ちの父の誕生日に…
高橋 優 『虹』