400年前の長崎はローマだったという話を聞いたことがあった。
西洋文明がいろいろな形で入ってきた時代。
そして、新しい教えも伝えられた。
特別な信仰をもたない私だが、昔から、長崎は無性に行ってみたい場所だった。
実際に行ったのもかなり大人になってからのこと。
古い歴史や古い教会を見てみたいそれだけの理由だった。
しかし、旅の最終日に長崎市からバスで、外海地区へ向かった。
そこは、隠れ切支丹が暮らしていた場所。
そこから、市内へ戻り、平和公園を経て、最後に行った場所が、西坂公園だった。
西坂公園の土の上に立った時に感じたことが私の絵のシリーズ”日常地平線”の大きなきっかけになった。
ここで感じたことを描かなければと強く思ったのを覚えている。
その頃、あまり歴史の知識がなかった私。
帰ってから、無性にそのことについて知りたくなり、隠れ切支丹の本を読んだ。
西坂のことも調べてみたところ、日本で初めて26人のキリシタンが殉教した場所だった。
歴史を紐解く、権力争いなどで、仏教も本来の力を失いかけ、精神のよりどころを探していた人々…。
ここまで人々が何かにすがらなければ生きられなかったのかと思うほど、現実が厳しかったのだろうと切実に思った。
隠れ切支丹の長い歴史を見つめていると何かを貫き通す意志の強さに感銘すら覚えた。
禁教令は1614年から、1873年まで続いた。
その間、ずっと密かに信仰の灯は継承され続けていたのだ。
世界的にみても前例がない貴重な歴史なのだと思う。
マーティン・スコセッシ監督の作品「沈黙ーSilence」を観てきた。
ここま克明に切支丹弾圧の歴史を描いた作品は、観たことがない。
25年もの間、大事に温めた作品。
原作を読んでいただけに、少し観に行くことに戸惑いを感じていた。
アメリカの映画ということもあり、どのように描かれているかが気になった。
しかし、この映画は、アメリカ風のところが少なく、その抑制された表現が、観るものを自然と物語の中へ招き入れるような空気感があった。
これは、スコセッシ監督の日本映画に対するリスペクトでもあり、歴史に忠実に描きたいという表れでもあるのだろう。
俳優陣たちの配役が適材適所で、素晴らしい演技を観せてくれていた。
特に、キチジロウ役の窪塚洋介は、人間の中に潜む狡さ、醜さ、弱さをみごとに体現していた。
脇役陣たちもなかなかの味のある顔ぶれだった。
信仰の持つ清らかさと人間の中に潜むあらゆる感情が拮抗しあって、ぶつかり合う。
そして、信じるとは、一体何なのだろうかと、思わずにはいられなかった…。
いつもこの吉利支丹の物語に触れると、つい、自分だったら…と考えてしまう。
登場人物をみていると誰にでも自分があてはまるような気もする。
名もなき人たちがいた。
殉教した者、棄教した者、何度も転んだ者(踏み絵を踏んだ者)、心では信仰し、沈黙を続けた者・・・。
みんな必死で生きていた。
今、手にしている自由というものが、こういう歴史の流れを汲んだものであることを認識しておきたい。
そして、この映画は、ある時代に起きたことを克明に描いているが、現代にも通じる普遍的で、大切な意味合いも含んでいるのではないだろうかと感じた。
物質的にはなに不自由ない生活の中でも、精神的な渇きは、癒えることがない…。
私もその一人なのだと思う。
日本の歴史の重要な時期を克明に描こうと務めたマーティン・スコセッシ監督の深い想いが伝わってきた。