久々に夜、少し歩いた。
し〜〜んと静まり返った街。
こんな街の空気は、大晦日にも感じたことがあるけれど、でも、やはりちょっと違う。
濃紺の深いガラス瓶の中にいるような、
押し黙った夜の底を歩いているような気持ちになった。
息を潜めた空気がどこまでも張り詰めた街。
暗い夜を裂くような音がして見上げた先には、4つのライトが点滅する飛行機が南へと飛び立って行った。あの機内にはどれだけの人が乗っているんだろう?と考えたりして…。
飛行機。
今度、乗る時は、いつどんな場所へ向かう時だろう….。
NHKーBSの番組で、「そして、街から、人が消えた〜封鎖都市 ベネツィア」を観た。
舞台は、今年2月のベネツィア。
3ヶ月前、50年ぶりに黒潮の被害を受け、2mほど水嵩が増し、多くの場所が浸水した。
しかし、黒潮の被害から、また、再び立ち上がって今年も300万人もの人が詰めかけ、18日間のカーニバルが開催されるその街のドキュメントだった。
しかし今年は、そのカーニバルの最中、ひたひたと黒い影が忍び寄って来ていた。
コロナウィルスが少しずつイタリアの北部から、広がり始めていた。日に日に変わる状況をつぶさにカメラは記録し続けていた。
残りあと2日というところで、カーニバルは、中止。カーニバルのメイン会場だったサンマルコ広場から、人が消えた…。
その中で、話題になったのが、14世紀からたびたび流行したペストだった。
この番組を観る前に、カミュの小説「ペスト」を読み始めていた。その本を置いて、テレビをつけ、その番組を見始めたこともあり、なんだかちょっと寒気が走った。
カーニバルに使われていた巨大なネズミの船。
そして、患者を診療する時に医師が身につけたマスク。
ペストの時代の文献を読み研究して、再現されたマスクは、今もカーニバルの際の定番アイテムとして使われているという。
"あの記憶を忘れまい"とする象徴のような仮面だ。
鳥のくちばしのような部分には、薬草を詰め、ペスト予防しながら医師も自分の身を守っていたと言われているとか。今のマスクのような役割だったのか…。
カミュの書いた「ペスト」の持つ臨場感は、凄い。
今もなお、そのリアルさは、鮮度が褪せることを知らないどころか、このコロナウィルスの影響下で、より鮮度を増している。
まるで本当にあったことをドキュメントしているようで、刻々と変わる状況が今の状況とリンクしていて、つい夢中になってしまう。
ペストは、致死率の高い疫病で、インフルエンザウィルスに近いコロナウィルスとは、異なるもののようだが、感染するという観点では、共通しているところもある。
この状況下で読むことによって、どうこの状況と向き合うのか何か参考になればと思い読み始めた。
この番組の中で、仮面を作る店の娘さんが話していた言葉が忘れられない。
「悲劇を積み重ねて、私たちは強くなった。」
一昨年のイタリアへの渡航がもし今年だったら…とか、今年、東京での個展だったらとか、過去と現在をずらして、考える時に、そこに行けたことや展覧会を実現できたことの必然性というものについて、つい考えてしまった。
今年だったらどうなっていたのだろうかと…。
できること、できないこと、
その必然と意味を考えると、
今しか生きられないものだぁと改めて思う。
今、こうして、ガラス瓶の底のような夜の闇の中で、誰にも会うことができず、何処にも出掛けることが出来ない場所で、息を溜め込んでいることに気づき、意識しながら息を吐き、呼吸している自分というものを感じながら、今日もなんとか父の世話をして、疲労の中、埋没してしまいそうな自分を救い上げるように、今、生きている自分に手探りで触れたくて、文字を起こしながら、今日を記しているような、そんな気がしてならない….
最近は、この人ばかり聴いている
素晴らしい声のシンガーソングアンドライター
キャンディス・スプリングス